底無しの浅瀬に底はあるのか

レン話ツイッター案件まとめ

人を道連れにするな(感想)2

1からの続きである。

後で恨むこと上等で、見返りを期待して大きな親切をする人になろう - レンタル話し相手のブログ (hatenablog.com)

(レン話ブログ部分は青)

 

「掛け捨て村」と「見返り村」に住み分けよう

しかし冷たく利己的に生きる権利はあるので、そういうスタイルで生きていきたいという人がいるならどうしようもない。

しかし不幸は減らしたいのでどうすればいいのか必死で考えてみたところ、それぞれ住み分けをするのがいいのではないかと思った。

お前にも生きる権利はある!しょうがないから認めてやる!

うーんスゴイ。

差別する人ってこういう考え方なのかな?

 

村に例えるなら、掛け捨ての親切しかやらない人は「掛け捨て村」に、掛け捨て以上の親切をして見返りを求める人は「見返り村」に、それぞれの住み分けてみればいいと思うのだ。

両者が混ざると不幸が起きる。

「親切は掛け捨ての範囲でやるもの」と考えている掛け捨て村の人は相手もそのつもりで親切をしていると考えるので、見返り村の人が無理をして親切をしても掛け捨て村の人が見返りを返さない場合が生じる。そうすると見返り村の人は恨みを抱いて不幸になり、掛け捨て村の人もその恨みをぶつけられて不幸になってしまう。

掛け捨ては、自分がこう考えたら楽だよねっていうだけの話であったはず(めんたねさんのツイート)、いつのまにか「相手もそのつもりで親切をしている」になっている。なんで?

あと、恨みを抱いてもいいんじゃなかったんかい!

やっぱり恨みはよくないんじゃないか。

 

しかし住み分ければそういう問題は無くなる。

見返り村の人同士であれば無理して親切をしてもちゃんと見返りを返してもらえるので恨みは生じないし、掛け捨て村の人同士であればそもそも誰も無理をしないのでやはり恨みは生じない。完璧である。

 そもそもどうやってすみ分けるんですかね?完璧とはなにか!

 

さて、こうして住み分けた時どちらの村の方が幸福度が高いのだろうか?

ぼくは見返り村の方だと思う。何故なら見返り村の方が親切の総量が圧倒的に多いからだ。たまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じることもあるが、そのマイナスよりも、互いが無理をして大きな親切をすることによるプラスの方が遥かに大きいと思う。

 一方掛け捨て村は、恨みが一切生じない代わりに親切の総量がめちゃくちゃ少ない、貧しい村になる。マイナスがない代わりにプラスも少ないということだ。

量…量で考えるのか……

具体的に数字を出してほしいものであるが、そもそも数字(量)にできることなのか?という疑問。

 

 

見返りのミスマッチが起きた時はどうすればいいのか?

先ほど「見返り村ではたまに見返りのミスマッチが起きて恨みが生じる」と書いたが、この記事を読んでいる人が1番気になるのはおそらくそこだろう。きっと「恨みばかり生じる怨念村になるじゃないか!」と思っている筈だ。

 すべてに???が生じていて一番も二番もない。

 

確かにそういう問題は結構あり得る。

 あ、あるんだ。そこは自覚している、と。

 

まず、交換レートが人によって様々だ。

ぼくは「自分がした親切量の最低5%の見返りが欲しい。その代わりぼくも親切をされたら5%以上の見返りを返す」という5%交換レートで生きているが、見返り村の中には「自分がした親切量の最低80%の見返りが欲しい。その代わり自分も親切をされたら80%以上の見返りを返す」という人もいるだろう。ぼくがそういう人に親切をされたら、「5%返したけどまだ求めるの? え、80%も返さなきゃいけないの? それは多くない?」というようなことが起きる。

親切量。さっきも言ったけど、親切量は数字になるの?目に見えるものなのか? 

親切量を可視化して共有できなければ、80%だの5%言っても通じないと思うのだが。

 

それでも逆にぼくがその人に親切をした時フェアに80%返してくれるならまだいいが、そうなるとも限らない。親切の量は数値化できない為、親切や見返りの量は完全に言い値になってしまうからだ。

ぼくの中では「ぼくが100の親切をしたのに2しか返してもらってない」という認識でも、相手からは「20の親切をされて16返したからいいでしょ」と言われるかもしれない。

こうなったらぼくは「なんて自分びいきな認識をするやつだ!」と憤慨するだろうが、もしかしたらぼくの認識の方が自分びいきなだけなのかもしれないのだ。正確な認識は誰にもできない。

 あ、そこはわかっているのね<数値化できない

 

こうやって見返りのミスマッチが起きた時見返り村の人はどうするのかというと、交渉することになる。

「ぼくはこういう状況でこういう親切をしたけど君が返してくれたのはこれだけだから、ぼくの親切を100とすると2ぐらいしか返してもらってないと思うんだよね」

「いや、オレは実はあの時こういう状況だったしこういうこともしたから20は返したでしょ」

「ああそっか、そういう事情があったなら20ぐらいになるか。でも君は逆の立場の時80%の見返り求めてたんだから、20%しか返してないんだったらアンフェアじゃない?」

 ただひたすらに気持ち悪い会話だなと思う。1人二役で会話しているような…

 

という具合に。

いくらなんでも見苦しいと思うかもしれない。だが、こうやって不満をぶつけるのは良いことなのだ。

何故ならそうすることで、相手が「ああ、オレは交換レートを自分びいきにしていたな」と反省できるかもしれないからである。心の中で恨むだけで不満をぶつけないでいたら、その人は自分からも他の人からも嫌われてしまう相手を想うからこそ、相手が自分の立派な人だと信じているからこそ、不満や恨みをぶつけるべきなのだ

 

相手に不満をぶつけなければ、相手に嫌われないのでは?

相手は不満を持っていることがわかるのだろうか?エスパー?

 

ちなみにこの交換レートの話をしていたらフォロワーの人から「後で揉めるぐらいだったら最初から交換レートを提示して欲しい。後から『自分の交換レートはこうだからこれぐらいの見返りを寄越せ』と言うのは詐欺でしょう」と言われた。

 もっともな意見である。

 

それは本当にその通りなのだが、親切をする前に「後でこれぐらいの見返りを求めるけどいい?」と言うのは流石にカッコ悪すぎる。

そういうのは予め言わず、後からなんとなく伝えたり感じたりするものだ。やむなく口に出してはっきり伝えるのはトラブルが起きた時だけでいい。

 カッコ悪い

カッコ悪い

カッコ悪い…

 そして相手に察してもらわなければならない…随分とハードルの高い村である。

 

さて、交渉の結果ミスマッチを解消できるならそれでいいが、交渉が決裂した場合、損をした方が相手に対して恨みを抱き、場合によっては絶交することになる

絶交……ご自分の経験ですか?

 

が、それはもう仕方がない。大きな親切を生むことの方を諦めるわけにはいかないのだから。事故が起きるからといって車を無くすわけにはいかないのと同じである。

仕方ないと思っているんだな。絶交は。

そして相手に恨みを持っている、と。もしかしてめんたねさんにやったような、「謝罪の要求」を相手にして絶交されましたか? 

 

ちなみに交換レートが80%など高すぎる人は、一般的に交換レートの低い普通の見返り村からはやがて追い出されることになる。その人は80%レートの見返り村に引越しをするか、既にそういう村がなければ自分で80%レートの見返り村を作って村長となるしかない。

誰が追い出すの?みんなで?

怨念村も怖いけど、追い出す村も怖いよ。

 

ぼくは5%レートなのに、友達からは何故か「人に期待するレベルが高すぎるんだよ」と言われウザがられている。意味が分からない。

 そうでしょうね案件。

 

 「超掛け捨て村の人」はすごく偉い

 

「見返り村でも悪いことは起きる」という話をしたあとは、「掛け捨て村でも良いことは起きる」という話をしよう。

 オッバランス取りに来たかな?

 

ぼくはずっと掛け捨て村の人をボロクソに言っているが、さっきから言っている「掛け捨て村の人」というのはあくまで、「掛け捨てできる親切の量が少ない人」のことを指している。ぼくは人類のほとんどは掛け捨てできる親切の量が少ないと思っているからだ。

アンダーライン部分、前文と後文のつながりが理解できない。

 

しかし掛け捨て村の中にはどうも、掛け捨てなのにとてつもなく大きな親切をする人がいるらしい。

ぼくがTwitterで議論した人の中には、「数十万円貸してくれと言われたから貸したらバックれられたけど、貸すと決めたのは自分だから全く恨みませんでした」みたいなことを言っていたド級の聖人がいた。ぼくには全く理解できない精神だが、どうやらそういう人は実際にいるらしい。

 さっきは修行僧っていってた。あと他人は自分とは違うのだよ。

 

そういう、「見返りを一切期待しないけどとてつもなく大きな親切ができる人」のことをぼくは「超掛け捨て村の人」と呼んでいる。

ちょっと人間味がなさすぎないかとも少し思ってしまうが、こういう人は本当に素晴らしいし立派だと思う。嫌味ではなく本当に尊敬している。

ぼくは超掛け捨て村の人などほとんどいないと思っているが、ぼくの想像が間違っていて超掛け捨て村の人が結構いるのであれば、掛け捨て村の親切の総量もそこまで低くはないのかもしれない。

そっすね。

 

あなたも見返り村の人間になろう

 

というわけで、それぞれの村の人を素晴らしい順に並べると以下のようになる。 

①超掛け捨て村の人

②見返り村のタチが良い人

③掛け捨て村の人

④見返り村のタチが悪い人

「見返りを求めるな! 見返りがなくても納得できる範囲の親切だけをやれ!」と言う人は一部の④を見て少数の①を推奨しているが、ぼくは④より②の人が圧倒的に多いし、①になるのは大多数の人にとっては不可能だと思う。だから②の「見返り村のタチが良い人」になるのを推奨している。

ほんとうに順位付け、上下関係、そういうの好きだねぇという感想しかない。

数の話も、それはあなたの感じ方でしかないというか、根拠がない…。

ブログの一番最初で引用したツイートを見たら、④が多いのであんなにバズったのではないか?と思わないでもないのだけど。

 

あなたも自己犠牲の精神を持ち、恨みを持つ覚悟で、見返りを期待して掛け捨て以上の親切をしてみよう。そういう人が増えることをぼくは心より願っている。

自己犠牲の精神と恨みがどうも私の中で同居しないです。

 あなたひとりだけでやってください。

願うのは勝手だが人を道連れにするな。

 

以上。