底無しの浅瀬に底はあるのか

レン話ツイッター案件まとめ

人を道連れにするな(感想)1

 

掛け捨て村・見返り村問題についてレン話さんからブログ記事があげられた。

後で恨むこと上等で、見返りを期待して大きな親切をする人になろう - レンタル話し相手のブログ

引用をしつつ?感想を。

(レン話ブログ部分は青文字。改行が多いのでその部分はてきとうに削除)

 

冒頭

 

よりによって引用するツートがそれ…。

いいね!が2.9万だから、めんたねさんのツイートではなくこのツイートを冒頭に引用したのかと思われるが、この2.9万の部分(それだけ賛同者がいると推測される)にはノータッチ。

いきなり引用されて「クソ」と言われるツイート、かわいそう…

そしてそのあと、

 

なぜか?

「見返りがなくても納得できる範囲で親切をしなさい」という意見は言い換えるなら、

相手がどれだけ困っていても無理をして親切をするのはやめなさい」と言っているに等しいからだ。

これは極めて自己中心的で寂しい考え方だと思う。

 

と続く。アンダーラインは私が引いた。

元ツイートにそんな記述あったっけ?

レン話さんは自分の説を補強するためなのか、このようにもともとは無い、自分の考えを勝手に付け加えるのはやめた方がいいと思う。

改ざんされた前提から導き出される結論は、破綻している。

こういうところが、結論ありきで理論()を組み立てていると言われるゆえんであろう。

 

 

人間は無理をして親切をするべきだ。

さいでっか。

 

そうすると当然、なんの見返りも返ってこなかった時に恨みや不満が生じる。自分が「親切をしたい」と思ってした行動の結果だから、そういった感情は自己責任として我慢しなければならないのだろうか?

当然、当然か…

 

違う。利他心や義務感で「親切をしなければならない」と思ってした行動の結果なのだから、自分に責任は全くない。全ての責任は見返りを返さなかった相手にある。

この辺、悪気がなかったんだから私は悪くない!とどう違うのかわからない。言うのは勝手だがお近づきにはなりたくない。

 

 そしてその恨みは、「自分は○○してあげたのにどうして返してくれないのか」と相手にきちんとぶつけるべきだと思う。そうすることで、互いに人を思いやれる優しくて温かい平和な世界が実現する。

なぜだ?

相手にぶつける→優しくて温かい平和な世界が実現

この理屈がわからない。(ぶつけられた相手は、受け入れること前提なのだなということはわかるけれど、そんな人間ばかりだったらすでに「平和な世界」ではないのか?)

 

 炎上目的で言っていると思われるかもしれないが、ぼくはいたって大真面目だし本気だ。無理をして親切をする人が増えるようにと願い、この記事にぼくの考えを詳述した。

最後まで読めばきっと共感していただけると思うので、ぜひお読みいただきたい。

いつだってレン話さんは大真面目で本気だよね。それはみんな疑っていない。

もちろん私も疑っていない。疑っていないからこそタチが悪いなぁと思っている。

 

 

(※この記事では「掛け捨ての親切」という用語が何度も出てくる。

「掛け捨て」とは保険の用語で「掛けたお金が戻ってこないこと」という意味だが、これを親切の話にも転用し、「戻ってくることを期待しない親切」「見返りがなくても納得できる範囲の親切」を表す時に「掛け捨ての親切」と言うことにする。)

めんたねさんのツイートを貼るか何かした方がよかったと思う。

 

見返りを求めることがなぜ悪とされるのか? 

なぜ見返りを求めることが悪とされているかというと、「タチの悪い求め方をする人が多くいるから」だと思う。

いつだれが見返りを求めることを「悪」としたのだろう?

いきなりでてきた「悪」に戸惑う。

 

タチの悪い求め方とは、

・不当に大きい見返りを求める(例:ご飯を作ってあげたんだから私を一生愛して)・相手が求めていないのに勝手に親切をして見返りを求める(例:アドバイスしてあげたんだから今度ボクとデートして欲しいナ)

主にこの2種類だと思うが、世の中にはこういうとんでもないことをする人が山ほどいて、そういう人に困らせられた人も無数にいるから最初に紹介したようなツイートがものすごい勢いでバズるのだと思う。

 

その例は、利他心や義務感から出てきた「親切」ではないと思うのだが…

なにやら前提がグラグラしてきたぞ

 

 

だが、一部にタチの悪い人がいるからといって見返りを求める行為全てを悪く言ってはいけない。タチが良い見返りの求め方もあるのではないだろうか?

はぁ。そうっすね。

 

例えばぼくにはこんなエピソードがある。

・役者を目指している友達に「人生の集大成の劇を観に来て欲しい」と言われ片道1時間半かけて観に行ったのに一言もお礼を言われなかった。

・その数ヶ月後、ぼくが「人生の集大成の小説を書いたから読んで欲しい。冒頭の5分だけ読んでつまんなかったらやめていいから」と言ったのに全く読んでもらえなかった。

・ぼくは「こっちは大量の時間とお金をかけて劇を観たんだから、無料で5分で読める小説ぐらい読めよ!」と怒った。

 

これはタチの良い見返りの求め方と言えるだろう。相手に求められてした100の親切に対し5の見返りを求めただけなのだから。

これを、「タチの良い見返りの求め方」の例に持ってこられるのがすごい。 

 

(「演劇って観に行きたいから観に行くものであって親切じゃないでしょ? 」と思う人もいるかもしれないが、漫画と違って途中でやめることができなければ映画と違ってCMもない「演劇」というのは、「その人が頑張ってるから観に行ってあげよう」という親切心がないと観に行きにくいものなのだ

なかなか素晴らしい考えをお持ちである。

観に行って「あげよう」

 

だからぼくはその役者の友達を堂々と恨んだし思い切り怒りをぶつけた。

で、いまその友達とはどうなってますか。

 

 

掛け捨ての親切しかしない人より見返りを期待する人の方が上等 

デタ~~~~!どっちが上か下か!

 

だが世の中には、今話したような見返りの求め方もしてはいけないと考える人がいるようだ。妥当な状況と大きさであっても見返りを求めること自体がダメで、見返りを求めたくなるぐらいだったら掛け捨ての親切だけをすればいいらしい。

もともとのめんたねさんのツイートにはそんなこと書いてあったかな…?

というか、ダメという禁止ではなくて、~したほうがいいよね☆って話では?

 

だがそんな生き方は良くないと思う。

掛け捨ての親切しかやらない人は怒らないからいい人だと思われやすいかもしれないが、言い換えれば「『恨んだり落ち込んだりしたくない』というエゴのために親切量を減らす人」ということだろう。そんな自己中心的な人のどこがいいというのか。

 前提が間違っているので導き出された(以下略)。

「掛け捨ての親切しかやらない人は自己中心的な人」

「しかやらない」…

 

いや、その人の「掛け捨てできる親切の量」がめちゃくちゃ大きければ問題はない。忙しいなか何度も相談に乗ってあげたりそれほどお金持ちでもないのに100万円を貸してあげたりすることを、見返りを期待せずにできるのであれば問題はない。

「問題ない」は誰にとって問題がないのか?

 

だが、そんなことができる人は相当少ないと思う。見返りを一切期待しないで大きな親切をするなんて、ほとんど修行僧の域だろう。

 この「大きい」は、自分にとって大きい、の意味なのかな?修行僧もいろんな種類がいて、自分のために修行している人もいると思うんだけど…大乗仏教しか認めないのかな(私の浅い知識)

 

修行僧レベルの人なら見返りを期待せず大きな親切をすればいいが(もちろんそれは大変立派なことだと思う)、そうでない人は「恨んだり落ち込んだりしたくない」というエゴを捨て、見返りを期待しながら大きな親切をしてほしい。自分を犠牲にして人や世の中を良くしようとしてほしい(もちろん余裕がない時は無理をしなくていい)。

エゴ。また出てきた。「恨んだり落ち込んだりしたくない」という気持ちはエゴ!

 

「見返りを期待するなんて浅ましいんじゃ……」と思うかもしれないが、大丈夫。大きな親切をした時に見返りを期待してしまう気持ちというのは人間としてごく自然なものだ。なんら恥じる必要はない。

そういう気持ちは否定しないけど、 これもエゴじゃない?

 

というかむしろ、見返りを期待しない人の方が恥ずべきかもしれない。

またでた。向こうを下げてこっちを上げる考え方。

 

何故なら「期待しない」というのは言い換えれば、「見くびってる」ということだからだ。「この人は見返りを返さない人かもしれないな」と思うのは相手に失礼ではないだろうか。

(もちろん、相手に余裕がない時は見返りの返済を待つべきだが)

ちょっとよくわからないですね… 

 

まとめると、例えば友達から100万円貸してくれと土下座された時、

【見返りを期待せず掛け捨ての親切しかしない人】はこう考える。

「うーん……100万貸しちゃうのは自分の掛け捨てできるレベルを超えてるから、もし貸したら見返りが欲しくなっちゃうなぁ……。でもこの人は見返りを返すような立派な人だと信用できないな。見返りを返してもらえなかったとき恨んだり落ち込んだりしたら自分が辛いから、貸すのはやめよう」 

対して、【見返りを期待して大きな親切をする人】はこう考える。 

 「100万円も貸すのはキツいけど、すごく困ってるみたいだから無理して助けよう。無理したのに何も見返りがなかったら恨んだり落ち込んだりすると思うけど、そのリスクがあっても今目の前で困っているこの人を助けたいし助けなければならない。それにこれだけ大きな親切をするんだから、自分が困った時はきっと助けてくれるだろうし。この人はそういう立派な人だって信じてる」

それはあなたの考え方では?でしかない件…

特に掛け捨ての方のアンダーライン。

 

 

どちらの方が素晴らしい人間だと思うだろうか?

ぼくは断然後者である。前者の人は冷たくて利己的だが、後者の人は温かくて利他的だと思う。

 なんかこう、激しくものの見方がひねくれているなと思うけど、そう思うのは自由ですね。

 

 2に続く!