(掛け捨ての親切)
「掛け捨ての親切」についてのめんたねさんのツイート4つへの理解
「掛け捨てできる親切」ということをワークショップなどでよく話している。見返りを期待してしまい、見返りがないと腹が立ってしまう親切はやりすぎで、まったく見返りがなくても掛け捨てできる範囲の親切がどこまでかを知り、その範囲内の親切をばらまいてみましょうという課題を出したりする。 https://t.co/i7j2hP14cE
— めんたね(やさしい) (@mentane) 2020年7月26日
趣味の範囲、楽しめる範囲、娯楽の一環として他人に親切にする。そのように他者と関われると、他人に対して恨みを抱くことがほとんどなくなる。あからさまにひどいことをされない限り。期待した反応が得られなかった!と落胆することはない。期待していないからね。
— めんたね(やさしい) (@mentane) 2020年7月26日
時々、「掛け捨てできる親切が全く思いつきません……」と暗く落ち込んだ顔で相談に来る人もいる。そういう人は必ず自分の親切行為に対する期待した見返りがないと傷ついてしまう。
— めんたね(やさしい) (@mentane) 2020年7月26日
気軽に掛け捨てできる親切の範囲が広ければ広い程、人生は楽しみやすくなるし、掛け捨てできないレベルの親切を無理にやってはいけない。それは恨みを抱える可能性を高める。恨みは人生の負債となる。いらぬ恨みは抱えないでいられる方が良い。
— めんたね(やさしい) (@mentane) 2020年7月26日
読みやすいようにツイート内容のみにする。
「掛け捨てできる親切」ということをワークショップなどでよく話している。見返りを期待してしまい、見返りがないと腹が立ってしまう親切はやりすぎで、まったく見返りがなくても掛け捨てできる範囲の親切がどこまでかを知り、その範囲内の親切をばらまいてみましょうという課題を出したりする。
趣味の範囲、楽しめる範囲、娯楽の一環として他人に親切にする。そのように他者と関われると、他人に対して恨みを抱くことがほとんどなくなる。あからさまにひどいことをされない限り。期待した反応が得られなかった!と落胆することはない。期待していないからね。
時々、「掛け捨てできる親切が全く思いつきません……」と暗く落ち込んだ顔で相談に来る人もいる。そういう人は必ず自分の親切行為に対する期待した見返りがないと傷ついてしまう。
気軽に掛け捨てできる親切の範囲が広ければ広い程、人生は楽しみやすくなるし、掛け捨てできないレベルの親切を無理にやってはいけない。それは恨みを抱える可能性を高める。恨みは人生の負債となる。いらぬ恨みは抱えないでいられる方が良い。
赤字にしたところはレン話さんがこだわっているところ。
確かに掛け捨てという言葉自体には恨みを持つとかいう意味はないのでさっきの返答は不適切でしたね……すみません。
— レンタル話し相手 (@Rentaltalker) 2020年12月3日
でも実際掛け捨ての親切を勧める人は「見返りが返ってこなかったら恨みを持つような無理のある親切はしない方がいい」という文脈で語っていることがhttps://t.co/LF3AWI1g1R
多いと思いますし、掛け捨てできる親切しかやらない人は恨みを持ちたくないからそうしてるんだと思っています。
— レンタル話し相手 (@Rentaltalker) 2020年12月3日
<私の理解>
「掛け捨てできる親切」ということをワークショップなどでよく話している。見返りを期待してしまい、見返りがないと腹が立ってしまう親切はやりすぎで、まったく見返りがなくても掛け捨てできる範囲の親切がどこまでかを知り、その範囲内の親切をばらまいてみましょうという課題を出したりする。
(導入部分)
趣味の範囲、楽しめる範囲、娯楽の一環として他人に親切にする。そのように他者と関われると、他人に対して恨みを抱くことがほとんどなくなる。あからさまにひどいことをされない限り。期待した反応が得られなかった!と落胆することはない。期待していないからね。
他者への期待→裏切られる可能性がある。
他者へ期待すると、それが叶えられなかったときに少なからずガッカリ(落胆)してしまう。そのガッカリが大きければ(少ない落胆でも恨む人は出ると思うが)恨みへと繋がってしまう。
そのガッカリをなるべく少なくするために、他者への期待をするのをやめる。
時々、「掛け捨てできる親切が全く思いつきません……」と暗く落ち込んだ顔で相談に来る人もいる。そういう人は必ず自分の親切行為に対する期待した見返りがないと傷ついてしまう。
掛け捨てできる親切が思いつかない→自分が親切をしたときのことを想像できる人、相手の行動を想像できる人、自分の思いに自覚的である人、ともいえる。
自分の思いに自覚的→自分の親切行為に期待した見返りがないと嫌だと自分でわかる。
わかるからこそ親切が全く思いつかなくなる。
このように相談しに来るということは、「暗く落ち込んだ顔」というところからも、この考え(見返りがないと嫌だ)が良くないということを理解している。理解しているができないから苦しみが生まれる。
見返りがないことに傷つき、またそのような自分にも傷つく。
気軽に掛け捨てできる親切の範囲が広ければ広い程、人生は楽しみやすくなるし、掛け捨てできないレベルの親切を無理にやってはいけない。それは恨みを抱える可能性を高める。恨みは人生の負債となる。いらぬ恨みは抱えないでいられる方が良い。
そのように傷つかないためにも、親切を無理にやってはいけない。
この無理という部分には、「己のキャパシティを超えて」の意味と「己の気の向かないことはやらない」という意味があるのではないか(同じ意味かもしれないけど)。
前段の相談者はきっと「親切を行わなければならない→しかし自分は他者からの見返りがないとできない」というジレンマを抱えている。その時「思いつく」親切は、本人には大きいからという発想はない。(自分にとって大きい親切だからできない、という発想)
そこに、「親切には大きさがある」という考え方を導入し、その大きさ(重さのほうが適切か?)を自覚しよう。自分の中で、親切の大きさを測り、自覚し、このくらいの大きさであれば掛け捨て(他者への落胆がうまれないで)できるということを自分のなかに持とう。
他者への落胆は、なにより自分が傷つくものである。その傷を少しでも負わないために、自分のできること(「掛け捨ての親切」)の範囲は自分で自覚しよう。
と理解しました。
あってるかはわからん。
(12月5日追記
めんたねさんから合ってると言っていただけたので、あってる!)