底無しの浅瀬に底はあるのか

レン話ツイッター案件まとめ

他者へアドバイスするということ(めんたねさんと鈴木さんのツイートへの理解)

他者へアドバイスするということ(仮)

~めんたねさんと鈴木さんの会話(ツイート)への理解~

 

会話のシメから先に。

(※まとめている間に会話が続いていたのでシメではありませんでした)

何故ならこのツイートを最初に読んだ上でこの一連のスレッドを読んだ方が、より理解が深まると思われたので。

 

 

 はじまり

この例えとは

個人的には「ドライ・ウェット」が自他境界がはっきりしているか、曖昧かで、「冷たい・暖かい」が利己的か利他的かという印象がある。その定義であればドライであることは間違い無いよね。永久凍土というよりは砂漠の乾燥地帯か……

というものなのだが、この例えが用いられている問題は横に置いておいてもこの会話は理解できるのでここでは置いておく。

ここでのポイントは

「母が子を心配するそのことも課題の分離問題として捉えるってのも結構一般的な感覚からは解離してそうな気はする」

一般的な「母が子を心配する」というのはアリかナシか(雑なまとめ)

(私の理解)

課題→その人自体の問題(悩み・心配etc..)

分離→自分と他者とは別々のものだと理解し、分けて考える

 

 めんたねさんを緑

鈴木さんを青で色分け

 

うん。親が子を心配するのは別に構わないのだけど、その心配自体は親の課題であって、子の課題ではないという感覚ですね。ここはそういう感覚を持っていない人の方が一般的なのかもしれない。少なくとも日本では。

「親が子を心配する」ことの意味。人によって感じ方が違う。

そのままの意味だけで使う(読み取る)人もいるし、親が心配によって子をコントロールしようとするというところまで含めて使う(読み取る)人もいる。また、それを自覚しているか自覚していないか、という差もある。曖昧な言葉。

日本人はそもそも、子供は親(特に母親)に付属するものという考え方が多い(自他の境界が曖昧)。

他人、に「自分」だけではなく子供や家族が含まれない人達がわりといる。

「身内」という言葉が表すものの意味。

 

そこ、ちょっとわかりにくいな、と思うんですけど 課題の分離のために「子を心配するな」というのではなく、課題の分離のために「自分のために子を心配しているのだ」と認識すべきだ、ということなんでしょうか?

分離のためにそう認識すべき

というよりは

認識すれば分離して考えることができる

という順番で考えるとしっくりくる?

 

誰のためでもいいのですが、自分の感情は自分の課題であるということですね。少なくとも子どもに「私の心配を減らすために、このような行動をせよ」と命じたり、強制したりする権利は親にないということです。丁重に頼んでお願いしてみることはできます。

「自分の感情は自分の課題である」

大事。自分の感情は自分の課題である、ということには2つの面があって、そうであるから他人にむやみに押し付けてはいけないという面と、反対に他人に押し付けられても自分の感情は否定されるいわれはない、という面である。

 

とすると、例えば権利がない、ということを知りながらも、強制することはどう位置付けられるのでしょうか? なぜ強制してはいけない、とするのですか?

「強制」とした時点でアウトと思われる。

強制は相手をこちらの意に無理やり従わせる。それは先の「自分の感情は自分の課題である」という考え方とは共存しないので。

 

「暴力的なやり方」「協力的ではなく競合的なやり方」「Discourage(勇気づけの反対、勇気くじき?)」ということになりますね。アドラーの枠では。アドラー心理学って戦争せずに平和に人と人とが関われることを目標にしているので、暴力的なやり方、競合的なやり方を極力避けます。

まあ、簡単に言えば、揉めやすいです。またそのように関わられ続けた人間は自律的になれず、依存的になります。自分の判断に自信が持てず、他者の顔色を常にうかがい、精神的に不安定になります。教育的にもよろしくない感じ。

相手を信頼してやることで、相手がその信頼に足る人間に育っていくという面が強くあります。心配を理由に何かを強制して口を出すというのは、その反対側の動きになります。不信の態度。

強制する=暴力的なやり方、競合的なやり方

競合→きそいあうこと

競合的なやり方はかならず勝者と敗者が生まれ、上下関係につながりやすい(この場合の上下関係とは勝者から敗者への見下し感情などがうまれる関係のこと)。

競合的なやり方は、勝者は優越感や万能感、自己肯定につながり一見良いように思えるが、これが生じるのは勝者のみであり、しかも必ず敗者が生まれてしまう。常に勝者でいるというのは困難である。

よってこのような競合的なやり方よりは協力的なやり方のほうがより良い。

「心配を理由に何かを強制して口を出す」というのは、相手を信頼していないということ。また強制されることによって自律がはばまれ、依存的になる(どうせやっても無駄、ならば最初から指示されたほうがいい。指示待ち人間)。

相手を信頼することで、相手はそれが自信につながり信頼に足る人間に「育っていく」。すぐになるわけではない。

 

なるほど。 お前は言わないとできないやつだ、というようなメタメッセージができちゃうわけですかね。 そこで有効なお願いの仕方、などもアドラー心理学の枠内にあったりするのでしょうか?

 

アドラー心理学の枠内かどうかはわからないけれども、「手助けが必要ですか?」「~させてもらってもいい?」と相手の課題に口や手を出すための許可をもらう質問をして、OKが出たら必要な援助をし、出ないときには本人の課題だからそっとしておく、という流れですね。

これは文章はそのまま受け取る。

 

ふむ。 あくまでも「自立」が前提にあって それを邪魔するような動きをしないようにしよう というのがアドラー的な立ち回りってことになりますか

助けを求める、という自発的な行動に対するリアクションとしての手助けであれば自立を邪魔しないのでおっけー、みたいな?

~しないようにしよう。というとらえ方より

~したほうがいいよね。というとらえ方の方が今までの流れ的にあっているのでは。

 

よくその辺は「頼まれもしないのに隣の家の庭に侵入して芝を刈ったりしないよね。少なくとも隣の家の芝を刈りたければ、チャイムを鳴らして『あなたの家の庭の芝を刈らせてもらってもいいですか?』と聞くでしょ」と説明しています。相手を尊重する礼儀でもあるし、自立を促す関わりとも言えます。

(※自立なのか自律なのか要確認)

(※隣の家、という言葉のまえの「よ」を削除。最初よその家、と書こうとしていたのかも?)

この、「隣の家」という感覚がすでに「自他との線引き」が入っていて、最初の「身内」感覚であるとこれが同じ家の中になってしまうのだろう。

これを言葉にして相手に伝えることで、自他の境界を具体的にイメージさせ、その後の「芝刈り=課題について」を上手くわかりやすいようにしている。

また、この隣の家という言葉選びが絶妙で、これが同じ家の中での個人の部屋に置き換えられていたら、また隣の家がよその家だったら、同じように腑に落ちただろうか?

同じ家の中の部屋、であれば「勝手に入ってもいいと思っている」人間はわりといるし、よその家であれば「関係ないな」という感覚を生む。

隣の家という言葉には、自分と隣り合って、関係を持たないことは難しく、なおかつハッキリと自分とは違うと意識できるもの。そんなイメージを受け取り手にイメージさせる。

 

この例えだと、隣人が「わざわざ芝を刈らせてくれ、と言ってくるのは芝を伸ばしすぎていてみっともないということだろうか」と感じ取ったとしても、それは隣人の課題だからこっちの考えることではない、という捉え方になりますか?

 

「こっちの考えることではない」というよりも「無断で相手の思考や感情に立ち入ったり口出し、要求することができない、しない方がいい」ですね。別に相手の思考や感情を推測するのは自由です。ただ相手に「みっともないと思うな」などといきなり要求できないという話です。

相手の課題に関しては、必ず一声かけて、提案や協力をする許可をもらい、共同の課題にしてから手を出すということですね。

 「自分の感情は自分の課題である」

だからといって何をしてもいいというわけではない。

他人を自分と同じように尊重しよう、という考え。

どちらを尊重しなければならない、のではなく相手も、自分も、同じように尊重しよう。

 

ふむ・・ 相手が結果的に操作されたとして、その場合はどうするのですか? いままでのお話で考えると、操作しようとすれば自立を損なう、ということだと思うのですけども であればこちらにその意図がなくとも相手が操作されてしまうような言葉は避けておこう、ということになります?ならない?

 操作、という言葉に「強制」的なイメージもはいっているように感じる。

 

別に「絶対に操作してはいけない」みたいなルールがあるわけじゃないですよ。人間は必ず他者の振舞いの影響を受けますし。単に礼儀を守り、相手の課題については暴力的な強制や押しつけを避ける。相手の課題に踏み込みたい時には一声かけて許可をもらう。それで相手も気を悪くしないですよという話。

大事なことなので大きくした。

他者の振舞いの影響を受ける。自分も受けているし、そして自分の振舞いに他者も影響を受ける。

人と関わるということはどちらか一方からのものではなく、双方からお互いに影響しあうものである。

気持ちよく生活していくために、他者への関わり方をより良いものにしていこう、という話。(~すべきとは終始言っていなくて、~するとよいですよと言っている)

 

 

感想

これは「掛け捨てできる親切を増やそう」にも通じるなぁ

 

(追記)

まとめている間に会話が続いていたので付け足しておく。

 

そこらへんはわりとゆるい指針ということですか。なるほど。 ひとは自立をしていたほうがよくて 操作的に振る舞われるとひとは自立をしづらくなる だからできるだけ操作的に振る舞わないように気を付けよう その上で相手の課題に踏み込みたいとき、具体的なやり方としては〜がある という話ですかね

つまるところ、あいてを尊重して付き合うためのお作法、みたいなお話ですかね

 

そうです!マナー、礼儀作法みたいなものです。相手の課題については相手の意思を尊重しましょう、と。

 

それが嫌な気持ちにならずに人間関係を築いていくひとつの方法ですよ くらいのニュアンスと捉えるといいんですかね。

 

そうですね。相手を嫌な気持ちにさせたい時には他人の課題に無許可で容赦なく踏み込んでいった方が効果がありますw 仲良く平和に関わりたい時向けです。

 

なるほどなぁ 理解が深まりました 解説ありがとうございましたm(__)m

 

細かいところはどうであれ、私の理解もそんな感じなので

そうそう乖離してはいないのかなと安心できたシメでした。まる。